終末の教会 3『神の名は』
祈り、アーメンせよ
この教会は普段は姿を現さない
いまこのときだけ訪れることができる…
ノラニャン そんなの知らんニャン…おにぎりだニャ?
神様 えー…では第二問!神様であるこのワシの本名は何でしょうか?
神様 ぶ、無礼な!ワシにも名前くらいあるわ!よく覚えておけ ワシの名は……何だったか…忘れたわい
イザヤ書 42章8節
わたしは主、これがわたしの名。わたしは栄光をほかの神に渡さずわたしの栄誉を偶像に与えることはしない。
キリスト教徒の信じている「神」とは何だろう?どんな名前で、どんな姿をしているのかは誰も知らない。
会ったことも話したこともないから
そんな神を2000年以上信じ続けているキリスト教徒は、それ以外の人から見たらおかしな集団のように映るかもしれない。
でも信仰ってそういうこと!
『神様は神様だから偉い。なぜなら神様だから』
神様がどんな姿でも名前でもいいんです。ただ信じたいだけなのだから。
信じることに理由はいらない
どうして聖書には神について詳しく書かれていないんだろう?
どうしてその姿を絵や像にしてはいけないんだろう?
そんな神を信じるなんて馬鹿馬鹿しく、愚かなことのように思われるかもしれない…
それはそう 「天地の創造者」「聖霊」「肉体の復活」「永遠のいのち」
聖書に書かれているそれらのことを本気で信じていたらどうかしてる。
そうなると神様を「信じる」という行為自体が何の意味もないことになる
だけどもし、神様がとても美しく、魅力的な姿をしていて人々の前に現れたらどうする? 多くの人は神を信じ、愛するようになるでしょう
でもそれは神の美しい姿を見ているだけで、神そのものを信じているとはいえない
それなら神がとんでもない不細工だったら、さてどうしたものか?
それでも神を愛し、信じることができるかな?
我々の信じていた神はこんな姿をしていたのか……とショックで寝込む人も居るかもしれない
いすれにしても、神が姿を現したらよくないことになるので、神は名前もなく姿も見えないほうがいい。という結論が出た。
【まとめ】キリスト教徒はただ神を信じるだけ…そこに理由はありません。
今回こんな感じです。なるべく聖書の内容をよく考えてブログに書きたい!
聖書について書くとき、参考にしている本は何冊かあるけど、『スヌーピーたちの聖書のはなし』はいつも手元に置いてあります。聖書入門の一冊としてもおすすめします。みんなも聖書について学ぼう! あまね
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