終末の教会 2 『悔い改める』とは?

祈ろう 神の誉れのために!

ようこそ また聖書を学ぶときがきた。是非お付き合いください


自分は正しいと思うとき

ノラニャン おなか減ったニャ~…なんか食べるもの無いかニャ?  ニャッ!こ、これは…!!



教会食堂のテーブルの上にお好み焼きがあることを見つけたノラニャンは、それをあっという間に食べてしまった。

翌日、朝…

 神様  これは…どうしたことじゃ? わしが昨日の夜楽しみにとっておいたお好み焼きが、なくなっておる…





 ノラニャン  ニャ?あぁそれ…ノラっちが食べたニャン ごちそうさまだニャン!




神様  な、な、何じゃと!?お主、また食い逃げしおって… こ、このわしが何度も申しておるのに一向に直らぬとは、許しがたい!

ノラニャン  だって仕方ないニャン 目の前に美味しいものがあれば食べちゃうのは、ノラっちの習性だからニャ~




神様  し、仕方ないで済んだら神はいらぬのじゃ! いや、それはまぁよい…お主は反省せよ!『申し訳ありません、これからは真面目な猫として務めを果たし、二度と食い逃げはしないようにします。アーメン』と謝れば許してしんぜよう



ノラニャン そんなことするくらいなら死んだほうがマシだニャン





神様  ぐぬぬぬ…もうー我慢ならん!そこまで言うならこのアホニャンを裁判所に引き立て、望み通りの裁きを受けてもらおう!





こうしてノラニャンは神の裁きを受けることになった。
神の裁きでは被告に弁護士は付かず、判決はギロチン刑のみだった

聖書  被告ノラニャンは、食い逃げの罪でギロチン刑とする!



 

ノラニャン  ニャッ!?そ、そんなことあるかニャ!



聖書  何か最後に言いたいことはありますか?



ノラニャン  こんなヒドい話あるかニャン!あまりに理不尽だニャン!





 聖書  ですが被告ノラニャンは、謝るくらいなら死んだほうがマシだと言った。それなら仕方ないのでは?  





ノラニャン  だからって本当に死にたいわけないニャン!そんな冗談を真に受けるほうがアホだニャン!




聖書  度重なる神様への暴言…オマケに反抗的精神も加わり、これはもう更生の余地なしと!十分死に値する。



ノラニャン  ノラっちは全然悪くないニャン!そうだニャン!もとはといえばあのニセカミがあんなとこに置いとくのが悪いニャン!あれじゃ食べてくれって言ってるようなもんだニャン!よって無実だニャン!



聖書   この期におよんでまだ反省しないとは、救いようがない。いますぐ被告ノラニャンをギロチン台へ!




ノラニャン  わぁぁぁーーやめろニャン!!ごめんなさいニャン!
ノラっちが悪かったニャン!許してくれニャンンー!!




神様  フフフ お主も悔い改めたようじゃな ならば許してやろう。  





ドッキリ大成功~! ノラニャンはその後真面目に教会で働くようになりました。
3日経てばまたいつものノラニャンに戻ったとさ めでたしめでたし
  




コリントのクリスチャンへの第一の手紙 9章15節
そうするくらいなら死んだほうがマシです。誇る理由を私から奪うことは誰にもできません!

この章の作者はパウロです。

自分の行いが間違っていると認めることは、簡単なことではありません。人は生きている限り、その間違いに気付かないからです。では「悔い改める」とはどういうことですか?それは自分の間違いに気付き、もう一度やり直すことです。
でもそれは生きている間は出来ません。
間違いに気付かないから、悔い改めることもありません。
なので人はみんな、パウロの言ったように「死んだほうがマシ」な状態にいるわけです。それは正しいことかもしれません。つまり悔い改めるには、死なないといけない。そして間違いに気付き帰ってくることは、簡単どころかとても不可能なことです。 しかし、悔い改めることではじめて、人であるイエス・キリストは神に近いものを用意できるようになりました。

それなら、キリスト教とはどんな宗教なのか?生きるどころか死んだほうがマシなんて、そんな理不尽な…死ぬための宗教なのか?
死ぬとはどういう状態ですか?肉体が動かなくなること?そして土に埋められて滅ぶこと? 
そもそもキリスト教に「死ぬ」という考えはありません!
人は眠るだけで、またすぐに目を覚ますというのがキリスト教の考え方なので、パウロの書いたこの手紙は、キリストの教えとは全く違う…もしかしたらパウロの個人的な考えだったのかも?
パウロがどうして「死んだほうがマシ」なんて思ったのかは分かりません。
ですがキリスト教では「死」は通過点で、怖いものではないと教えられています。
パウロがコリントの教会に手紙を書いたのは西暦55年頃で、イエスが復活したあとのこと。
実際に死んだはずのイエスが悔い改め、帰ってきたのをパウロ自身の目で見ているので、パウロは信仰が確信に変わったんじゃないかと…?
人は死ぬべきだと。イエスのように死んで復活すべきだと

パウロもイエスに従う熱心な弟子の一人でした。そのためクリスチャン以外の群衆からは迫害され、何度も殺されそうな目に遭いました。「こんな仕打ちにいつまで耐えられるのか?」と思ったかもしれません。それでもパウロは伝道をやめませんでした。イエスに励まされたからです。
自分もイエスのようにどこまでも歩いていかなければ…たとえそれで死んだって構うものかと、そのくらいの思いでいたのかもしれない。

【まとめ】
キリスト教は死ぬための宗教ではなく、どんな困難な状況でも生きるためのもの。
パウロの考えは滅茶苦茶な気もするけど…でも生きてても辛いだけで、その先に何もなく死ぬだけなんて悲しすぎるから、パウロの考え方も分かります。

【おしらせ】
このブログは聖書の言葉について学ぶ場所です。誰でも参加ください。
聖書を読んで学ぶことは楽しい。あぁこの言葉ってそういう意味だったんだと知ることができるので…できるだけ正しい解説ができるようにしたいです。
あと聖書研究の会って名前、何かもっといい名前ないかな~…?
コメントお待ちしてます。  あまね









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